研究開発に見た遠回りの結論にあきれる -水素エンジンと点火装置-


2014年8月30日土曜日

1972年、アメリカ・デイトナ200マイルレースのプログラムが出てきた


倉庫の片づけをしていたら、こんなものが出てきた。たぶんかなり貴重だと思う。それは、1972年のアメリカAMAシリーズ第1戦となる、デイトナ200のプログラムだ。

実は1972年に会社(八重洲出版モーターサイクリスト編集部)を2ヶ月休職して(当時の社長が「海外を見て来い、休職してもかまわないぞ」と言っていたので)、当時アメリカへ遊学していた実兄を訪ね、アメリカ大陸往復横断(LAから出発してLAに戻る)をクルマで行った。

当時はガソリンもエンジンオイルも非常に安価で、排気量の大きなフルサイズカーでも、燃費を気にする状況にはならなかった。クルマは中古のフォードギャラクシー289(約4800ccで、当時では小さい部類)MTを使用。でかいので、身長180cmの我々でさえ、その中での就寝も可能だった。

余計な話はこれくらいにして。アメリカ大陸を計画なしに横断してもつまらないから、2月のデイトナ500(4輪のストックカーレース)、3月のデイトナ200(バイクのレース)をそれぞれ正式にプレスパスを取得し見に行くことは決めていた。その途中では、かなり面白いことが起きてしまっていたのだが、その話は長くなるので割愛。

アメリカ東海岸ではデイトナ200の前に、ホンダの研究所に勤務し、CB750開発・テストライダーとして活躍した後、アメリカのペンシルベニアへ渡った菱木哲哉氏に会いに行った。菱木さんはアメリカ東海岸のクラウスモーターサイクルにヘッドハンティング(当時はこんな言葉あったかな)され、渡米していたので、そのクラウスを尋ねると、菱木さんはクラウスに不在。

社長は「そんなやつ知らん」と、取り付く島もない。でも社長の奥様が「彼・マイク(当時マイク・ヘイルウッドにあこがれていたので、マイク菱木と改名)はニュージャージーのウイッギーホンダにいる」とのこと。

どうやら、日本での話と、現地アメリカでの話が違いすぎたようで、チャンスを見て家出???したらしいのだ(クラウスの奥様には話をしていたが)。

その菱木さんもウイッギーホンダでメカニックをやりながら、生活しており、そこを尋ねたら、「自分達もデイトナへ行きジュニアクラス100マイルに参加する」とのこと。ただし、菱木さんはメカニックとして同行するという。ウイッギーホンダを選んだいきさつは、長くなるのでこれも割愛。

このデイトナ200マイルでは、エキスパートクラスが200マイルで、ジュニアクラスは100マイル。他にノービスクラスがありこれは76マイル。

そして、このノービスクラスには日本人が出場していた(翌73年には、故隅谷守男氏が200マイルに出場し6位)。ヤマハ市販レーサー250TDⅡでエントリーする尾崎トシヒコさんという方で、マシンコンディションが悪く完走でレースを終わったが、後日、勤務していたバイクショップからの帰りにフリーウエイで交通事故に会い、帰らぬ人となってしまった。

ノービス76マイルレースに出場したのは、ゼッケン28の尾崎さん。マシンのセットアップがうまくいかず、完走でレースを終わった。後日、交通事故でお亡くなりになると言う、悲劇が・・・
 
そのデイトナ200には、ヨシムラがアメリカ進出を計画し、拠点作りのために初めて正式参加するが、表には出ずクラウスモーターサイクルのバックアップという形だった。

ライダーはロジャー・レイマンとゲーリー・フィッシャー。G・フィッシャーが乗ったマシンはホンダコレクションホールにある。成績は、どうだったか忘れた。
G・フィッシャーが乗ったマシン。ホンダコレクションホール所有。写真は今年のモーターサイクルショーで、ヨシムラのブースに展示されていたもの


このときに200マイルで優勝したのはドン・エムデ(空冷のヤマハ市販レーサー350TRⅢ)。メカニックは60歳は過ぎているだろうと思われる方が一人だけ。レース途中の給油ではヘルパーが付くけれど。

このメカニック氏がやっていた作業は、考えられないこと。それは、燃焼室を削って形状を変える加工。旋盤なんていうものはないから、リューターと回転ヤスリで少しずつ。圧縮比だけを下げるなら、ヘッドガスケットを2枚なんていう方法もあるが、それではダメなのだろう。2気筒だから左右の燃焼室を均等に手で削るのは、神業だが、でもそれをやってのけた。

プラクティスで少し走ってはまたヘッドを外して削る。これを4~5回ほど繰り返していたと思う。

スプリントレースではないので、とにかく乗り易くて燃費がよく、最後まで走ることが重要だから、この方法で改良したのだろう。で、とにかく優勝したのである。すごい

ゼッケン5がR・レイマン。10がG・フィッシャー。優勝したのはゼッケン25のドン・エムデ。メカニックのすごさにはただ脱帽。これほどのことを現場で、しかも自信を持ってやれる方が他にいるだろうか
マイク菱木さんが面倒を見たウイッギーホンダのマシンは、ヨシムラのキットを組み込んだCB750。ライダーはジェームス・クリスチアノ。予選はそこそこだったが、決勝グリッドに並んで最終チェックのとき、ヘルパーをやる同店のマネージャーが、オイルクーラーのパイプをねじ切ってしまい、あっけなく終わり。

ゼッケン19番がウイッギーホンダのジェームス。普段はウイッギーホンダでメカニックをやっている。チョイト頼りないが
そんなこんながあったデイトナ200マイルのプログラムである。

2014年8月11日月曜日

ホンダNC750X・DCTの試乗記で忘れていたこと


その忘れていたことは、アイドルアップとクリープ走行のような現象についてである。

クルマでもそうだが、ツインクラッチの制御は難しい。発売された当初のツインクラッチ(日本ではアウディが最初)では、チグハグな制御が目立っていたのだが、現在ではそれもない。指摘されたことを謙虚に受け止めて、改良を重ねてきたからである
 
700のDCTではこのような状況での走りを体験しなかったので、把握しなかったが、やはり距離が多い状態であると、普段、まず発生しない問題の走りが出てくる。イレギュラーは事故に結びつくので、改良の余地があると思う。

その問題の走りは、エンジンが中途半端に冷えているときに起きた。冷却水の温度は、エンジン始動後のアイドルアップのマップを要求する状況にあったのだろう。走り出して減速しようとアクセルを戻したが、思うように速度は低下しない。もちろん低速状態での話し。

いくらギヤミッションのATであっても、思うように速度調整が出来ないのは、一瞬あせりに。そのときには、「アッアッアッ、速度が落ちない」。いったい何が起きたのか見当も付かない状態だった。

そりゃそうだ、アクセルは完全に戻しているわけだから、ブレーキを使わなくても速度が低下し、最終的には停止にならなければいけない。なのに10~20キロほどの速度を維持したがる。徐行状態からのUターンだったので、慌ててフロントブレーキに手がかかったが、路面がドライであったため事故にはならなかった。

何故このようなことが起きたのか、しばらく考えながら走行したが、そこでの判断は、冷却水温度の低下とエンジンオイル温度の低下がリンクしていないためである、との結論だ。

どういうことかというと、走行後であれば、ラジエターを持つ冷却水の方が冷えるのは早い。再始動のときには、その冷却水温度によって、冷間時始動と同様にアイドルコントロールバルブが開き、燃料が増量され、アクセルを完全に戻していても、その状態に関係なくアイドル回転は上がる。

これが、エンジンオイルも冷えている状態であれば、オイルのフリクションによって勝手な行動が表に出ることはないのだろうが、前記のような症状が出たときには、エンジンオイルはまだ温まっている状態。つまりフリクションは小さい。

エンジン回転が上がっているという条件だけを取れば、バイク側の判断は「ライダーはアクセルを開き、走行を要求している」ことになるため、クラッチは接続を切り離す行為をしなかった。

これを防ぐには、アイドルアップが作動中で1速、2速ギヤで走行中(トップギヤからのダウンシフトでも)、アクセルを全閉した場合は、クラッチを切るという指令が必要で、そのようなことになれば問題も起きない。

また、マニュアルクラッチ仕様と違って、エンジンオイル温度センサーが取り付けられているので、そこからの情報を確実に利用すれば、冷却水温度が低下して、アイドルアップしたい条件であっても、エンジンオイル温度がそれを認めないような制御を組み入れれば、このような「暴走」とも取れることにはならないはずだが。

2014年8月8日金曜日

三年前と何が変わったのだ。津波被害の地を再度訪ねる


3年と3ヶ月前の2011年5月連休明け、大震災と津波の被害に遭った地域で、自治体と関係なく個別に活動する組織、“地球元気村”(主宰、風間深志・冒険ライダー)が立ち上げたベースキャンプを拠点に、延べ10日間ほどのボランティア活動に参加させてもらった。もちろん自給自足、テント生活である。

そのとき、「これから、ここに住む方たちはどのようなことになるのだろうか、気持ちが張り詰めていないと、前に進めないのではないか。その張り詰めている気持ち、心は、いったいいつまで持つのだろうか」、など考えるときが多かった

被災に遭っていない私は、本当に無責任な感情を抱いてしまった。それは、元の街並み、そこに住まわれる方がた、走る自転車や自動車など、ここに住む人たちの、普通の生活というものを知らないからだと思った。
このお宅は海岸から僅か50メートルほど。当然津波の被害に遭われたが、丈夫な家の作り方で、傾きもせずしっかりと建っていたため、ご主人は修理して住みたかったのだが、奥様がここにはもう住めない、ということで引越しの手伝いをした
 
引越しの手伝いをやったお宅を訪ねてみたが、すでに家はなく、倉庫が修理されて使われていた


御用聞きボランティアであるから、そのお宅にお邪魔して、一番やって欲しいことから手を付けるのだが、御歳より夫婦だけが住まいとしている(津波での被害は家屋だけだったとこは、幸いかもしれない)お宅では、お二人ともほとんど口を利かない。そのことに対するケアは残念だが我々では無理だった。

一日の活動が終わり、そのお宅を後にするときでさえ、ご夫婦は、特別な感情を見せなかった。気持ちがどこかへ飛んでいってしまったかのようだった。或いは、一緒に住んではいないが、子供や孫が、津波の被害で亡くなってしまい、ただ呆然として、今を生きていることで精一杯だったのかもしれないが、そのことに対して、根掘り葉掘り聞くものではないので、知る由もなしである。

子供たちが集まる場所にも出かけてみた。そのときには、楽しそうに振舞う子供の様子を見て、「大人にとっては、清涼剤になるな」と思っていたが、自宅に帰り、数週間たって「ハッ」と気が付いた。

あの、子供たちの振る舞いは、「周りの大人に気を遣っていたのだ」、ということ。この瞬間、思わず涙が自然にあふれた。この原稿を打っているときでさえ、うっすらと涙が出てしまう。

彼らは、精一杯の気持ちと、そして行動で、先の見えない災害に打ちひしがれた大人に、その現実を忘れて欲しくて、気を遣いながら振舞っていたのだ。これに気が付いたのである。けなげな子供たちの振る舞い・・・

ただし、被災地を再び訪れたとき、とんでもない話を、ある方から伺うことになった。それは、当時幼かった子供たちが、被災状況を見て、大人たちに気を遣ったまではよかったのだが、その後、3年以上経過しても、常に大人の顔色を伺いながら行動や、言葉を選んで話をし、子供本来の行動をしなくなってしまった、という内容。

子供は、本来、大人(親)の顔色を伺いながら行動することはなく、自分勝手なわがままとも言える発言などで、周りの大人たちを困らせ、それを正してもらい、また、関係する大人たちも、それによって成長するのだが、それがない。

常に「いい子」状態で、これからあの子達はどうなるのだろうか、という心配をされていた。もちろん国や自治体が、被災地の子供たちの心のケアをやったという話は聞いていない。

心が育っていない大人になったとき、果たして周りを牽引していくことが出来るのだろうか。気になる状況である。
津波で流された志津川の駅。僅かに駅舎が残るだけ
 
その志津川の駅前を訪れた。駅舎はもちろん線路も何も変わっていない。変わったのは雑草がはびこる状態だけ。3年以上が経つのに人が住むという、ごく当たり前の生活が見えない。低くて役には立たないと思われる堤防工事だけは各所で手をつけているが、今回の津波はその堤防の3倍ぐらいの高さだった。低い堤防は何の意味があるのだろうか