研究開発に見た遠回りの結論にあきれる -水素エンジンと点火装置-


2016年8月29日月曜日

防災倉庫に保管するモーターボートエンジンはガスエンジンとしたい


最近の自然災害で多いのは、洪水。その洪水が起きたときに役立つものは、ボート。ゴムボートなら管理も簡単で、数人を運ぶことに長けている。もちろん動力が欲しいのだが・・・

その動力としてはガソリンエンジンを使用したものが一般的

いざとなったときにエンジンが始動するかの確認は、ぜひやっておきたいのだが、その後の管理を正確に行わないと、翌年には始動不能に陥る。始動確認で使ったガソリンが問題となるのである。

ガソリンタンク内は空にしても、キャブやダイヤフラムポンプ内にガソリンを残ったままにしていると、長期にわたる保管でガム状に変化し、燃料が送られなくなったり、キャブが詰まったりのトラブルとなる。

そこで、ふと考え付いたのが、カセットボンベのガスを使ったガスエンジンを、非常用モーターボートエンジンに応用できないか?というもの。発電機にはカセットガスボンベを利用した小型のものは数年前から発売されているが、モーターボートエンジンとなると、ガスエンジンが無いように思うのだ。

メンテナンスが省けるし、始動性も良い。チョークなどないから、エンジン始動後には直ぐに使用可能となる。どうだろうか?もう市販している???

2016年8月24日水曜日

自作モーターボートも載っている、1966年のモーターマガジン社オートバイ誌に掲載された我が懐かしき記事


ガレージ上の倉庫を整理していたら、懐かしい雑誌の切抜きを発見した。今は亡き母が額に入れて保管していたものである。

それが、このモーターマガジン社発行の「オートバイ誌」。見開きの取材記事で、今週のトピックスというページ。タイトルは「ぼくらのオートバイ工房」。

当時はかなりのバイクを所有していたのである。もちろん全部にナンバーが付いている状況ではないが。

父が使っていたクルマの車庫をベースに、バイクを入れながら、そこで整備が出来るよう作り変えた。今考えると、どう見てもきれいではない。まるで汚いポンコツ屋状態。

右下の写真が自作したモーターボート。トレーラーも自作。エンジンは隣の倉庫に保管してある
 
ここで目を引くのは、モーターボートの写真。キャプションにはポンコツエンジン25馬力のスコットとあるが、それは間違いで(そう説明はしていないが)、知り合いの方から譲ってもらった、アメリカ製のマッカラー400ccである。

写真のボートはもちろん手作りで、14~15フィート(自宅の部屋の中で工作していたので、そのことが可能な寸法となった)。耐水合板を使用して自分達で製作したもの。真鍮の木ネジを使うが、マイナスドライバー対応しかない。もちろん電動ドライバーもない。手のひらに多くの豆を造りながら合板を貼り付け、組み上がったら20Kgほど油性ペンキを塗りつけた。そしてエンジンも完全に修理したが、そのときに覚えた判断力と技術は、その後の取材でもかなり役に立った。

例えば今でこそ、コンロッド大端部のカチ割り製作は普通になったが、当時でも(エンジンとしてはたぶん1963年ぐらい)加工技術の高さはすごい。それも4ストロークではなく2ストロークエンジンでの話だ。ニードルローラーが回転部分には使われる。その状態でも、全負荷(アクセル全開でそれ以上回転が上がらない強烈な負荷)に対応する耐久性が保たれていたのだ。

当時はモーターボートを所有する人などいない。運搬するトレーラーもバッテリー溶接機を用いて自分達で製作し。好き放題に荒川、秋ケ瀬堰の上流側など、走らせていた。もちろん邪魔扱いされることもなかった。

数年後には、船舶免許が必要となったが、進水式の素晴らしさ、感動を味わってしまった人間にとって、モーターボートを乗り回すことに飽きてしまっていた。当時、伊豆の三津浜に別荘を持つ知り合いから「船舶免許講習会の会場に来て、席を立たず、寝ていてもいい。住所・氏名など書いて申請書を作っておけば、目が覚めたら、そこには船舶免許があるのだから・・・」と2回ほど誘われた。でも船舶免許は取らなかった。そのことについて後悔はしていない。燃え尽きたのだろう。

なぜそこまでして、浜の漁師に船舶免許を交付しなければならなかったのかというと、「当時でもお年寄りが多くいて、その方の中には字もろくに書けない人がいるから、講習会と試験をやったところで、合格しない。船舶の運転にかけては数十年のキャリヤがあり、その中で学んだことは、船舶法に則しているので問題ない」のだが。

で、字がろくに書けない、読めない方が、船舶免許を持たないと、翌日から漁に出られない。そうなると・・・というわけで、船舶免許講習会というより、船舶免許与える会なのである。

モーターマガジン社のオートバイ誌が取材に来て、コネクションは出来たが、私が就職した会社は八重洲出版社モーターサイクリスト編集部だった。

当時の八重洲出版には、母方の従兄弟が勤めており、その方から社長への推薦もあって、無事就職できた。ただ、その方と私が従兄弟であることを、当時の社員で知る人は社内でも数人だけだった。あえてまるで他人のような振る舞いをすることで、仕事に支障が出ないよう配慮していたからである。