下のサイトをクリックすると、1977年第一回からの写真ページが出てくる。イーハトーブ歴史観をクリックし、その第1回のスタート場所(ホンダが経営していたアクト牧場)最前列の向かって左から3人目が私である。
http://www.sukaheru.net/~ihatove/photo/index.html
あるときイーハトーブトライアルの企画と進行をやった万沢さんと成田さんがヤングマシン編集部を尋ねてこられ「岩手の山の中で2日間トライアルを開催するので、取材に来て欲しい」という話を持ち込まれた。
イーハトーブトライアルについては、大久保 力さんが著作した「百年のマン島」の497ページに書かれている。
ま、当時のバイク雑誌の中で、トライアルに造詣が深かったのは、1974年にSSDTへも参加した私一人。話が持ち込まれて当然だったかもしれない。
他の雑誌はというと、オートバイ誌であるという。オートバイ誌には親しい方がいたので、電話して取材するかどうか聞いてみると、前日の列車で出かけるという。そこで、ずうずうしくも同じ列車の指定席乗車券を一緒に購入してもらった。
そのオートバイ誌の編集部員は、その後、なんと冒険ライダー(バイクで南極、北極、エベレストなど挑戦で有名。現在、地球元気村というNPOを主宰する)となった風間深志さんである。
彼はレンタカーを盛岡駅前で借りたので、またもずうずうしく、宿泊先である七時雨山荘まで同乗させてもらう。盛岡の市街地を過ぎると、街路灯も一切ない真っ暗な砂利道。ひたすら山のほうへ進むとやっと七時雨山荘に到着した。
その七時雨山荘で、主催者からうれしい提案があった。なんと、成田さんが連絡用として持ってきたホンダのトライアルバイク(イーハトーブだったと思う)で、参加しないか、という話である。多少窮屈ではあるが、装具も成田さんのものを借用することで参加が決まった。
4ストローク125ccならガソリンの心配は必要ない。トルク、出力とも、ハードな走行には無理だが、あくまでもツーリングトライアルが主体だから、その心配はないという。
オフロードツーリングを楽しみながら、山中を駆け巡る。どこに立ち寄るか、どこにセクションがあるかは説明書が配られる。しかし、どのようなルートを走ればいいか、どこを曲がるのかについては、SSDTスタイル。赤いマークがあったら、その先を右に。青いマークがあったら、同様に左へ曲がる、というもの。
MCFAJのトライアルでも、公道を走る場合にはSSDTコースマーク方式を使っていたので、なんら問題ない。
オフロードツーリングを楽しみながら、途中のセクションをトライすることはとても楽しく、一部の緊張もあって、充実したイベントであった。
セクションをクリーンする。撮影はもちろん風間深志さん。トラブルもなく、楽しい2日間のイベントを味わった。これが一番大切なことだと思っている
途中のセクションでは、最初に書いたように、オートバイ誌の風間さんが写真を撮影してくれた。これは貴重なワンショットでもある。
右が主催者の成田さん。現在、日本のトライアル界を牽引する、成田 匠さんのお父さんである
セクションのある村に近づくと、各家庭からお子さんやお年寄りが道路に出てきて、手のひらタッチ(当時はハイタッチがなかった)、食べ物の差し入れなど、暖かくもてなしてくれたことが走馬灯のように脳裏に浮かぶ。
裕福な農村地帯ではないところでも、同様なもてなしを受けると、なんだか目頭が熱くなる。
第1回から数年にわたって、取材がらみで参加したが、なんだか物足りなくなって、あれから数十年ご無沙汰したまま。
3回目だったか、満を持して持ち込んだのは、SSDTで使用したオッサMAR(ミック・アンドリュース・レプリカ)。確か成績はかなり良かったと思うが、ガソリンが混合方式であるため、途中のGSで給油するときにも混合オイルを入れなければならず、面倒だったので、次回はTY250に決めた
ただ参加するだけではなく、1泊する普代村でチャリティなど、特別なイベントを設けても良いのではないか、という提案もしたが・・・
そして、回を重ねていると、このようなイベントも少しずつセクションが難しく、見ごたえのあるものになってしまう。つまり、参加するライダーの意向を聞いて、それに沿うようなセクションを作ってしまうのだが、それが問題発生の元となる。
有名なSSDTでさえ、一時期は世界選手権のチャンピオンが満足できるようなセクションが造られ、その結果、けが人が多く出てしまい、批判を浴びたので、現在は昔に戻して、誰もが楽しく走れる(といってもかなりタフなコースやセクションもあるが)ようなレベルにしている。クラシックトライアルバイクのクラスもあるようだ。
つまり、イーハトーブトライアルも、初心が大切。2日間での減点がゼロ、というライダーが複数居たってかまわないはず。そのためには、誰もが感激するような、特別な企画が必要ということである。
最後に参加したときには、漫画家の伊藤信(いとしん)さん(すでに故人)のアシスタント役だった。所有していたTY250での参加。いとしんさんはTY125
このように、最初がどうだったのか、ここに立ち返れば、大きな事故になるようなこともなかったと思うのだが・・・違うかな~