研究開発に見た遠回りの結論にあきれる -水素エンジンと点火装置-


2014年8月8日金曜日

三年前と何が変わったのだ。津波被害の地を再度訪ねる


3年と3ヶ月前の2011年5月連休明け、大震災と津波の被害に遭った地域で、自治体と関係なく個別に活動する組織、“地球元気村”(主宰、風間深志・冒険ライダー)が立ち上げたベースキャンプを拠点に、延べ10日間ほどのボランティア活動に参加させてもらった。もちろん自給自足、テント生活である。

そのとき、「これから、ここに住む方たちはどのようなことになるのだろうか、気持ちが張り詰めていないと、前に進めないのではないか。その張り詰めている気持ち、心は、いったいいつまで持つのだろうか」、など考えるときが多かった

被災に遭っていない私は、本当に無責任な感情を抱いてしまった。それは、元の街並み、そこに住まわれる方がた、走る自転車や自動車など、ここに住む人たちの、普通の生活というものを知らないからだと思った。
このお宅は海岸から僅か50メートルほど。当然津波の被害に遭われたが、丈夫な家の作り方で、傾きもせずしっかりと建っていたため、ご主人は修理して住みたかったのだが、奥様がここにはもう住めない、ということで引越しの手伝いをした
 
引越しの手伝いをやったお宅を訪ねてみたが、すでに家はなく、倉庫が修理されて使われていた


御用聞きボランティアであるから、そのお宅にお邪魔して、一番やって欲しいことから手を付けるのだが、御歳より夫婦だけが住まいとしている(津波での被害は家屋だけだったとこは、幸いかもしれない)お宅では、お二人ともほとんど口を利かない。そのことに対するケアは残念だが我々では無理だった。

一日の活動が終わり、そのお宅を後にするときでさえ、ご夫婦は、特別な感情を見せなかった。気持ちがどこかへ飛んでいってしまったかのようだった。或いは、一緒に住んではいないが、子供や孫が、津波の被害で亡くなってしまい、ただ呆然として、今を生きていることで精一杯だったのかもしれないが、そのことに対して、根掘り葉掘り聞くものではないので、知る由もなしである。

子供たちが集まる場所にも出かけてみた。そのときには、楽しそうに振舞う子供の様子を見て、「大人にとっては、清涼剤になるな」と思っていたが、自宅に帰り、数週間たって「ハッ」と気が付いた。

あの、子供たちの振る舞いは、「周りの大人に気を遣っていたのだ」、ということ。この瞬間、思わず涙が自然にあふれた。この原稿を打っているときでさえ、うっすらと涙が出てしまう。

彼らは、精一杯の気持ちと、そして行動で、先の見えない災害に打ちひしがれた大人に、その現実を忘れて欲しくて、気を遣いながら振舞っていたのだ。これに気が付いたのである。けなげな子供たちの振る舞い・・・

ただし、被災地を再び訪れたとき、とんでもない話を、ある方から伺うことになった。それは、当時幼かった子供たちが、被災状況を見て、大人たちに気を遣ったまではよかったのだが、その後、3年以上経過しても、常に大人の顔色を伺いながら行動や、言葉を選んで話をし、子供本来の行動をしなくなってしまった、という内容。

子供は、本来、大人(親)の顔色を伺いながら行動することはなく、自分勝手なわがままとも言える発言などで、周りの大人たちを困らせ、それを正してもらい、また、関係する大人たちも、それによって成長するのだが、それがない。

常に「いい子」状態で、これからあの子達はどうなるのだろうか、という心配をされていた。もちろん国や自治体が、被災地の子供たちの心のケアをやったという話は聞いていない。

心が育っていない大人になったとき、果たして周りを牽引していくことが出来るのだろうか。気になる状況である。
津波で流された志津川の駅。僅かに駅舎が残るだけ
 
その志津川の駅前を訪れた。駅舎はもちろん線路も何も変わっていない。変わったのは雑草がはびこる状態だけ。3年以上が経つのに人が住むという、ごく当たり前の生活が見えない。低くて役には立たないと思われる堤防工事だけは各所で手をつけているが、今回の津波はその堤防の3倍ぐらいの高さだった。低い堤防は何の意味があるのだろうか